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70−80年代の北アイルランドとIRA

 69年にIRAは三回目の分裂を起こします。分裂した方は暫定派IRAと呼ばれ、今日に至るまでの活動を続けてきました。ちなみに分裂元は武力闘争を望まず、いつのまにか消えてしまいました。
 70年代と80年代は、北アイルランド問題に関わるIRAとしてもっとも盛んに活動を行った時期にあたります。ベルファストとデリー(ロンドンデリーとも表記するが、それはイギリス方式であって、IRAを指示する私たちには不必要なものです)のカソリック区域では、IRAはある種の自治さえ獲得しているのです。
 1971年にはイギリスによってインターンメントが導入されました。これは裁判なしで拘禁できるという警察国家にとって強力な武器となりました。拘禁の理由について、警察は何も言わなくてよいのです。インターンメント導入後の4年間で約2000人が拘禁され、そのうちの数百人かもっと多くの人数が拷問にかけられました。永久的な損失を体を負ったものもいました。
 1969年に北アイルランドにやってきた英軍は、当初カソリック系住人に歓迎されたものの、本性が暴露されるに及んで、非難の対象になりました。彼らが行ったことを端的に引用しましょう。

 英兵はツルハシや銃の台座でドアを叩き割り、床板を剥ぎとり、暖炉をひきはがし、壁や天井を破砕して穴をあけた。宗教的な彫像が破壊され、十字架は引き倒され、くまなく家宅捜索が行われた。
(略)
 英兵はその地域をCSガスの大洪水にした。マッチ箱のように小さな家は窒息性のCSガスの雲から免れることができなかった。ガス弾が落下してくる時に屋根のタイルをこわし、それが屋根裏部屋に落ち、家を煙でいっぱいにした。(※1)

 70年代に北アイルランドで青春を過ごしたカソリック系住人はいつでもIRAに参加しようとした、と言われるほどの弾圧が続きました。

 80年代でもっともIRAがニュースになったのはボビー・サンズの殉死ではないでしょうか。囚人として彼は政治犯待遇を求めました。それは、たとえば旧ガンダムで捕らえられたジオン軍兵士の言う「南極条約での待遇は保証してくれるんだろうな」というのを思い出させます。イギリス政府は、いつものようにIRAの提案を拒否します。
 ボビー・サンズはそれに真っ向から立ち向かい、何人かの仲間たちとハンガー・ストライキを行い、二ヶ月ほどの断食の末に死亡してしまいます。彼が獄中にありながら議員の補欠選挙に当選したことを知れば、その覚悟を支持者たちがどう受け取ったか判ってもらえるかと思います。そして、死亡したときには、ベルファストとデリーで大規模な暴動が巻き起こりました。
私が何度も”サッチャー元首相は殺されて当然だ”というのを覚えておられる方もおられるかもしれません。サッチャーは、IRAに対してまったく譲歩せず、幾人もの活動家たちを殺してきたのです。そう、北アイルランドの差別を解消しようともしないで。

※1:『IRA アイルランド共和国軍』鈴木良平, 1985, 彩流社, ISBN4-88202-461-6

 

 

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