『家族計画』
このページにはこのエロゲーに関するネタバレがあります。
未プレイものは読まないようにしましょう。
家族計画の感想を書き出すのは難しい。
個人的にもプレイからすでに数ヶ月が過ぎており、思い出すのが辛くなってきている。
それでも語るべきことはある。
たくさんある。
とりあえず、私の中でずっとくすぶっている不満について語ろう。
たぶん、シナリオそのものについては余り話さないと思うが、
しかし家族について話すことがシナリオから受け取ったものを返すことに間違いない。
特にこのエロゲでは。
さて。
家族計画は物語のおもしろさ以上の広がりが少ない。
家族の大切さについては十二分に伝えきった作品だと思う。
だが、なぜ家族なのかという問いには答えてくれない。
これが家族計画の最大の欠点だ。
なぜ家族という価値観にこだわるのか。
それは個人で見いださなければならないのか。
いや、そんなメッセージはシナリオ中にはなかった。
やはりシナリオライターが絶対的指標として家族なる概念を持っているのではないか。
そんな気もしてくる。
友人が家族についてこう語ってくれたことがあった。
「家族なんてものは所詮、人間関係の一種に過ぎないんだよ。
家族という人間関係なんだ。
ただ血が繋がっているからといって思いやりが出てくるわけじゃない」
まさしく。
家族という絆は実は幻想に過ぎないということを示す台詞だ。
近年の家庭内暴力の広がりを思い出してほしい。
血が繋がっているから、親子だから、夫婦だから。
そんな理由でお互いを思いやる気持ちが生まれるのではないということだ。
血が繋がっているから大切にし、大切にされているから信頼を寄せる。
家族という幻想はこうして生まれ継続されてきたが、TVの普及によって徐々に破壊されつつある。
TVがどうやって思いやる心を破壊してきたかについては、『<子>のつく名前の女の子は頭がいい』
(金原克範)を読んでもらうとして、問題はそこから発生する変化である。
幻想をはぎ取られた家族はもはや同じ家に住んでいる他人でしかない。
他人であるから感情移入の対象となり得ず、その関係性は酷く薄い。
もはや家族というイメージから与えられる印象は親しげなものにならず、
ただ他人同士が身を寄せ合って暮らしているだけだ。
そう、『家族計画』はまさに現代のこの縮図を表していたわけだ。
境遇の似通った他人が集まって、ひとつのコミュニティを形成した。
それが家族計画。
青葉シナリオで家族は信頼できるものとして描かれる。
裏切ったと思っていた「じいさん」は、結局のところ青葉=家族を愛していたと証明される。
青葉は避難所として司を利用するが、そこには絶対的信頼を元にした関係性がある。
いや、その関係性は二人によって作り出されたとする方が自然だろう。
司は青葉を信じ、青葉は司を信じることを選んだ。
家族が一つの人間関係に過ぎないなら、それを育てていけばいい。
シナリオ中の家族計画は失敗したものの、司はそれを悟ったのだろうか。
いや、ここで家族は絶対的価値を持つものとして描かれているように私は思った。
二人を見た末莉は、家族になることはできなくても、家族を目指すことは出来ると悟って、
新しい家族計画を一人でスタートさせてしまう。
むしろ、答えは末莉のこの行動にあるんじゃないか。
しかし、末莉もまたなぜ家族なのかという問いには答えてくれない。
彼女は失ってもいない家族なる原風景みたいな幻想に囚われているだけで、
そこから脱出してくれはしない。
末莉シナリオは、一人の人間が信頼という力を手に入れるまでの過程はよく描けているけども、
家族という価値観について何も語ってはくれない。
ただ、幸福の象徴として強調するだけだ。
思うに、この態度は信仰に対するそれではないだろうか。
そうすれば、いろいろ納得できる。
家族を信仰し、信仰の果てに家族計画において幸福を実感してしまった末莉はもう疑うなんてことはできないだろう。
だが、この信仰は家族に価値があるのではなく、司への信頼でしかない。
個人と個人が出会い、お互いを求めただけの話だ。
家族という価値を『家族計画』は証明できていない。
個人と個人の信頼によってのつながりがあるだけ。
ただ、ひとを信じることのみが残る。
それは祈りにも似て儚い。
だが、最後まで信じられなければまた現実に裏切られるだけだ。
司と彼女たちは最後まで信じた。
いまの私たちにできるのはその選択を尊重することだけしかない。
私たちには、最後に、家族を信じて慈しみ愛し合うという困難な道が示された。
よくある美辞麗句として「悲しみの数だけひとにやさしくできる」なんてものがある。
これは、出来ないことだからこそひとの心を動かす言葉だ。
で、私たちは最後まで誰かを信じ切るなんてできるのだろうか……?
答えは未だ見ぬ現在の中にある。