ネガティブ的RPG批評の序文の試み
日本酒

 何人かで連れ立って、コンベンションに出かけたときのことである。その帰り道、いつものように友人たちと談笑しながら、奇妙な想いを抱いていた。皆が、コンベンションでどれだけ腹立たしいGMに出会ったかを競争のように話しているのである。これはまあ、いつも引き起こされる現象であり、さほど気にとめるものではなかった。しかし、あるセリフが聞こえてきた。“やっぱり、いいマスターに当たらないとね”と。このセリフは私に幾ばくかの真実を悟らせたのである。それは驚きでもなんでもなく、ごく当たり前の事実だった。

 すなわちRPGにはクズしかないということである。さらに、これはちょうどD&Dが登場してきた70年代から一向に変化の兆しを見せないように思えてくるのだ。D&DがRPGというジャンルの境界線の縁にいたように、様々な矛盾に満ちたシステムがプレイヤーとゲームの支配者を混乱させた。無意味なページの独壇場であったあのルールブック。究極の複雑性と完璧な困難性を兼ね備えたシステムがどの様に権威を振りかざして、末恐ろしいほど未発達のゲーム的自意識に侵入して悪影響をあたえたかを思い出すと身震いだけでは済まない恐怖を我々に呼び起こす。かつて偉大なるRQのカルトプレイヤーたちが、偉大なるSWの一般プレイヤーたちに与えた微弱ではない感情はシステム的束縛への嫌悪感だけであっただろうか。これら未曾有の影響力を考えるのはもちろんだが、原点に帰り、このようなクズRPGがどのようなものかを考察する必要があるに違いない。考察によってだけRPGの境界線を探ることが可能になる。

 もし我々が以下述べるようなことを頭で理解するだけでなく、直接、具体的に確信できるようになれば、RPGに寄与することは多いと思う。即ち、RPGの批評というものは「はなゲー」なるものと「まゆゲー」なるものの二重性に結びついているということだ。そして大部分のRPGはこの適度に奇妙な名称だけで説明できる。「はなゲー」と「まゆゲー」の名称は友人と二人して行った議論の末に偶然から生まれたものだ。この名称がまったく的確であることは、この隠語的性格が直接脳髄に浸透するからである。「はなゲー」とは「名前を言ったら鼻で笑われるRPG」の略であり、同じく「まゆゲー」は「名前を言ったら眉をしかめられるRPG」のことである。雑談のこの有用な産物を手掛かりとして、我々に判ることは、明らかな蔑称であるこの二つの概念をあらゆるRPGに当てはめることが、RPGデザインにおける有用性を高めてくれるだろうということだ。

 「はなゲー」とはゲームシステム部分の不備を言ったもので、矛盾がセッションの進行を妨げかねないRPGをいう。またこれはニーチェの云うアポロ的な部分の完成度も表している。これはそのRPGが提供している架空世界の全体像に於けるデザイン的な健全性或いは整合性の問題を追求する。RPGの純粋なテキストと数値的に構築された部分の自我は確かにアポロ的なのである。

 「まゆゲー」とは世界観とそれに関係するシステム部分に関する不備であり、たとえ汎用をうたっているRPGでもデザイナーの世界観がシステム部分に影響し、多数のバグが現れる。これはデザインに於けるデュオニュソス的な部分にも係わってくるものである。概して、プレイヤーたちへの世界の魅力の度合いはこのデュオニュソス的な部分に支配されており、この部分が不確実性の固まりであることがアピールになる。

 どちらにせよ根本的な問題を追求している点では同じ衝動的概念なのであり、お互いを補完し、平行し、刺激し合って批評を高めてくれるだろう。これは我々が疲れるセッションをくぐり抜けてきたとき、編集の悪いルールブックを購入してしまったとき、ルールの不備に虚脱したとき、独りよがりな世界の説明を黙読しているときに述べなければならないあの台詞を形而上に橋渡しし、次のような完璧な思考を我々にもたらす。すなわちこの世のRPGはクズしかなく、議論しなければならないのはどのようにクズであるかという不毛な作業なのだと。この作業を繰り返すことによってのみ、我々は次の段階を目指す力を入手し、新たなセッションへと旅立つことが出来るのである。

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